映画評論「品田誠監督作 特集上映に寄せて」


初めまして、木屋たくまです。
生まれて初めてブログというものを作りました。
インスタ、ツイートと発信が簡素化する時代には逆行しているかもしれませんが、
やっぱり思う存分、思ったことを長々と書く場所が欲しくなりました。

更新は不定期ですが、それなりに人が読んでも価値あるものを書いていきたいなと思います。
映画や音楽、日々感じたことをこれからここに書きます。
ブログ名は「緑の映画館」という意味です。
かえると映画が好きなこと以上の深い意味はありません。

以下は、ブログ開設のきっかけにもなった
同じく北海道旭川出身の俳優・品田誠の映画についての評論です。
7月中にのろのろと書いていたので、文体が変わりますが、ぜひ読んで観て下さい。

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観てからもうしばらく経つけれど、7月上旬にテアトル新宿で
同郷の友人、品田誠が監督してきた短編映画たち、そして新作の特集上映があったので観てきた。
品田の映画はこれまでも何度か見てきたし、自主上映でもかけたことがある。
それなりにそれぞれの作品にも思い入れがあるし、理解しているつもりです。
今回、連ねて観るとすごく作家性を感じたし、共通する描写・主題に気付くことがあった。
個々の作品に対する感想や品田映画のおおまかな感想はトークイベントやツイッターでも
たくさん語られているので、僕はもう少し踏み込んだ監督:品田誠の分析をしたい。



僕が物心ついた頃からスターやキャストではなく、映画監督で映画を見るようになったのは
監督が同じ映画は、全く違うストーリーでも、原作ものでも、違う時期の映画でも、
似た空気が流れていたり、似たメッセージを受け取ることが多いことに気付いたから。
よく言われる作家性とは、簡単にいえばそんなようなことだと思う。

品田誠がこれまでに撮った短編映画は5本。
『ノンフィクション』『マヨネーズラブ』『Dear』『不感症になっていくこれからの僕らについて』『鼓動』

今回の特集上映でおそらく400~500人の観客が彼の映画を数本単位で観た。
その評で目立っていたのは「やさしい視点がある」「みんなが見過ごすような物事に寄り添う視点がある」という指摘。
僕も今回まとめて観て、新作の「鼓動」を観て、強くそう感じた。
人の生き死に、病に冒される状況が多い(これについては同パターンじゃないかという批判もあるでしょう)
人生を不本意にもリタイアしていく人々と、残された者という構図は確かに多い。
物語において「人の死」は僕ら生き物が決して抗えない絶望の代表格でもあるが、
映画の展開をよりドラマチックにするトリックだと捉える人もいて当然だと思う。
品田の映画はどうもセンチなところがあるなぁと僕自身は思っていたのだけれど、
今回見返したことで、ただセンチだというイメージはなくなった。
前半で描かれるセンチメンタリズムが、後半どこへ向かっていくのか、ちゃんと描いている。
それが彼の作風だし、作家性だと感じている。
ここから一本ずつ映画を取り上げて、その例を上げていきます。
いいですか、皆さん!ここから長くなりますよ!

でもいつか誰かにやられる前に、僕が彼の映画の評論をしておきたかったので挑戦します。
もちろん映画を見ていない人にも、なんとなく伝わるように書きます。


『ノンフィクション』(2015)

自分で主演した20分ほどの短編。
初めて見たときは、ショートフィルムでこのトーン、緊張感をもたらすことばかり評価してしまったけれど、
今となっては一作目にしてもう彼の映画の主題は決定づけられていたんだと驚く。

主人公は小説家。書いた原稿を編集担当にボツにされるところから映画は始まる。
彼は、以前は書けたのに、今は書けなくなってしまった小説家。
この「作れなくなったアーティスト」「作りたいものがわからない創作者」は品田映画の一つのテーマだと思う。
主人公は、読者や出版界も信じていないし、自作に編集者を皮肉に登場させてることでもわかるが、不満だけを元に作品を書いている。ヘミングウェイの「陽はまた昇る」を、繰り返される彼の無為な日々を表すものとして登場させている。
ニヒリズムに陥った彼は、ある昼少女の幽霊を見る。
そのゴーストに連れられた廃墟の建物で、主人公は彼女が暴漢に襲われ殺される姿を見る。彼女は言う。「気づいて」と。
すぐに彼は新しい原稿を仕上げ、編集者にOKをもらう。
担当に「今回は良かったね、何か心境の変化でもあったの?」と聞かれ、
彼は「別に。個人的な事柄に光を当てて、真実を描こうとしただけです。」と言い、映画は終わる。

 品田が後に撮る映画のタイトルを借りるなら、彼もまた不感症に陥ったアーティストだ。
どうして彼は再び作品を書けたのか?自発的なのか偶発的なのかはわからないが、彼は少女の死という一つの悲劇を知った。
一人の平凡な女子大生がいた、彼女の人生がある日突然失われた。
もしかしたら、彼はそれに心を傷めたかもしれないし、ネタになるぞ…と思ったかもしれない。
(彼が最後に仕上げていた小説は、彼女のことを書いていたのだと思うけど、
この主人公の気持ちを読みきれないところが、何度か見てもグッとくるポイントかもしれない)
しかし、彼はその死に何か気づきを得た。
何かを作るということは、どれほど才能があるかでも、どれだけ時間をかけたかでもなく、
「気づき」そしてそこから生まれるアイデアが一番大事だ。
一見するとミステリアスな怪奇譚だが、実は品田が創作とは何かについて、
一つの答えを出している、とても重要な監督デビュー作なのである。

『マヨネーズラブ』(2016)

自身で主演した2作目であり、男の徹底的な失恋とその喪失感からドラッグの快楽に溺れていく破滅感まで描いた異色作。
正直、この映画はこれまであまりわからなかったけれど、
今回見返して見て、そして最後に追加された数分間のシーンを見て、
彼らしい一縷の希望が託されている映画だったんだなと気づいた。
(ただ恋愛の諸々をマヨネーズに例えてるのはやっぱり何度見てもわからない笑)

こちらの方が『ノンフィクション』より前にシナリオを書いていたようだし、本人も今作への思い入れはかなり強いよう。
実は自分の監督作で一番好きかもと何度か口にしていた記憶がある。
今回追加されたラストシーンは『鼓動』のそれとリンクしていた。
この後の『Dear』『不感症に~』であまり表立ていない恋愛の要素も全開。
品田の映画は、悲劇や不幸が起き、それが根本的に解決はされない。
けれど、何か発見や出会いがあり、少しだけ前向きな兆しが見えたところで終わる
それは全作に共通していることだと思う。


『Dear』(2016)

上映作で人気投票したらこれが一番なんじゃないかと思う3作目。
最後にハッとするストーリーテリングがあり、ハートウォーミングな短編映画。
秋乃ゆに演じる主人公が品川と田町の間のあたらいを歩きながら、
アイフォンのセルフィでビデオメッセージを撮っている。
そこに回想として挿入される彼女が年上の男と同じ場所を歩く姿。
彼女は女優になるためのオーディションを控えていて、彼はそれを勇気づける素敵な関係性。
後半で、実は彼は交通事故で昏睡状態になっていて、彼が目を覚ました時のために
ビデオでメッセージを撮っていたことがわかる。2人の会話がナチュラルでうまい。
とても観後感のいい爽やかな短編。
オーディションを受けにいくまだ海のものとも山のものとも言えない役者が主人公という点では、
一番当時の品田自身の境遇に近い主人公だけれど、ここにあまり自己投影は感じない。
(秋乃ゆにに多少アテガキをしていたようだし)
むしろmakoto氏演じる男の一言一言に品田が込めたものを感じる。
素敵な短編ではあるが、かなり短期間で、シナリオも撮影も終えたようであまり苦労して作った映画ではないのだろう。
トークゲストの塩田明彦監督がその辺を見抜いていてさすがだと思った。


『不感症になっていくこれからの僕らについて』(2017)

田辺・弁慶映画祭で賞をもらった今回の表題作。ミュージシャンの主人公が地元に帰省する。
学生の頃によく時間をつぶしていた吊り橋で幼なじみの女の子と再会し、母校へと向かう。
取り壊しを控えた空っぽの教室で思い出話をした後に彼は、最近友人が亡くなり、曲が作れなくなったと告白する。
その夜、同じく幼なじみの男友達が経営するバーである女性の弾き語りを聞く。彼女もまた、最近姉を亡くしていた。
彼は聞く「今でも姉ちゃんが現れることってある?」
「ありました、歌を作るまでは..」核心に触れずにあらすじを書くならこんなところかな。

ここでまた『ノンフィクション』と同じく「ものが作れなくなったアーティスト」が主人公になる。
彼は列車の人身事故で友人を失うが、そこで失われる命よりも遅延や自殺を迷惑がる周囲の声をきき、その物悲しさに絶望する。
(この状況は僕も経験あリます、あいみょんのデビューシングルでもこの気持ちは歌われていたな)
仕事のこと、社会のこと、目先のことが忙しく、人の命という本来いちばん尊いもの、その尊さを忘れてしまう。
でも、決してそれはみんなが優しくないわけじゃない。これから目にする不幸なこと、悲しいこと、
死んだ人や無くなっていく場所にいちいち心を痛めていたら、僕らはきっとすぐに壊れてしまう。
不感症は、悲しいことだけど、僕らは感度を鈍らせることで自分を強くしている。
おそらくタイトルにはそういった気持ちが込められていると思う。
 彼は失う。最愛の友人を、母校の校舎を、若さを、周囲の人々感度も。
こんな世界の中で彼はどうするのか、僕らはどうしていくべきか。
札幌で初めてこの映画を自主上映した時に、見終えて登壇した品田に僕はこう言った。
「最後に彼は鎮魂歌を歌ったんだね」  品田は「ああ、そうとも言えるね」と言った。

鎮魂歌はレクイエムとも呼ばれるけど、
辞書で引くと「死者の霊をなぐさめるために作られた詩歌」となっている。
感傷的じゃいられない時代に、僕らが死や喪失と向き合う方法。
その1つはそれを何か形にすること、表現すること。アーティストなら作品にすることだ。
姉を亡くした妹は、その想いを歌にした。それから、姉の影を見ることはなくなったという。
彼もまた、失われていく校舎で、亡くなった友人を想い、歌を歌った。
「不感症になっていくこれからの僕らについて」という題を曲につけた。
そうして彼は喪失を浄化した。
個人的に、僕らが死と向き合いつつ、とらわれずに生きていくもう一つの方法は、
たまに思い出すここと、思い出話をすることだと思う
後半、残されたものたちがそういう話をするシーンが少しだけあるのだけれど、
このあたりがもうちょっと濃密だったらもっと良かったのにと思う。

作品を作れなくなったアーティストが、死の影(幽霊)と出会い、作品を作ることで乗り越える。
「ノンフィクション」と同じ構図になっている。ルックは全く違う映画だけど、
『不感症~』はミュージシャン版のノンフィクションとも言える。僕はこれは品田自身だと思う。
『ノンフィクション』が作られるきっかけは詳しく知らないけれど、
「不感症~」は”学校”が出てくるオムニバスの一編として撮る企画から始まっていて、予算も決まっていた。
そこからシナリオを書いているし、何を取ろうか結構迷っていたと思う。
そんな時に、品田が目を向けるのは、喜びや楽しさ、安易な希望ではなく、
僕らが見過ごしてしまっているかもしれない死や喪失、絶望なのではないだろうか。
2人の主人公は品田誠自身だ。次作『鼓動』を観て、確信した。


『鼓動』(2019)

品田の知人2人のエピソードに着想を得たシリアスなドラマ。
一人は藤原季節演じる大学生。就職を控えた3月末、小さい頃から疎遠でやくざ者の父親が
自殺したと連絡が入る。嫌いで許せなかった父親と初めて向き合おうとする。
向き合う相手はもういないけれど。
僕はこのモデルを知っているけれど、彼の複雑な生い立ちに哀しさだけじゃなく、愛と許しと
少しの希望を添えてドラマに仕上げたところはさすがだと思う。
もう一人の主人公は、入江崇史演じる中年のサラリーマンであり、一児の父親。
有望な高校球児の息子が難病にかかり、普通の生活が送れないほどに、衰弱していく。
古い携帯電話に残っていた息子の小さな頃の動画を夜道で見た彼は泣き崩れる。
(彼がここまで取り乱すのが、息子の変わり果てた姿にショックを受けてなのか、
自分が期待で追い込んだことに責任を感じてなのかが、よくわからなかった)
その夜、二人は駅前の道ですれ違う。2人だが群像劇のような感触の映画になっている。

特集上映を見た人ならば、『鼓動』が映像的にも技術的にも精度が高いと思うだろう。
『Dear』と同じくらい、もしくはそれ以上に評判も良かったと思う。
品田が監督してきたショートフィルムの集大成になっている。
「集大成」というのは便利な言葉で、あまり好きな言葉じゃないんだけど、これはそう言いたい。
5作品を追って見て、やはりこれが現時点で作るべきだし、最後に作るべき一本だったと思う。

『鼓動』(当時はタイトルも何を撮るかも決まっていなかったわけだけど)は
不感症の田辺・弁慶受賞があって7月に新作を撮り上映することが先に決まっていた。
シナリオ作りというか、どんな映画を撮るか悩んでいたのはなんとなく聞いていた。
全ての締め切りも早かった。「鼓動」にはモデルがいる。
ノンフィクションの主人公のように、不感症の主人公のように、
品田自身が身の回りの死や喪失に光を当てて、作品にすることでわずかでも希望を見出す。
彼がこれまでの映画でやってきたことを、品田自身が今作でしている。

「鼓動」の登場人物には表現者はいない。社会人になる大学生とサラリーマン。普通の人々だ。
悲しいことがあっても、表現を通して昇華する術はない。だから彼は、出会うことで光を得る。
ここが品田のフィルモグラフィに足された新しさだと思うし、
自己投影に頼らず、映画作りに挑戦した第一歩だと思う。

「不感症~」で、もう少し描かれていればなぁと思うのは、
主人公のバックグラウンド、さっきも書いた彼らの思い出話、
それともう一つは福永マリカ演じる姉を失った妹の存在だ。
短編なので、それほど登場シーンは多くないが、
実は彼女も表現で死を鎮めた一人であり、主人公にそれを気づかせた存在でもある。
この残されたものたちの出会いによって開かれるものがある。
次作「鼓動」ではその出会いにフォーカスを当てていた。

父を亡くした息子と、息子を失いかけている父親。
実の父親とはもう決して言葉を交わすことはできないし、息子の身体は戻らない。
でもこの出会いが、この夜が、この差し伸べた手が、何かを変えるかもしれない。
そう思わせてくれるし、なぜか胸が熱くなる。鼓動が早くなる。
これがこの映画が持っている力だと思う。

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すごく長くなったね…。
これ全部読むやついないだろうと思いながらも書き続けましたけど。
どうして、品田誠はこの5本を撮ったんだろう。
もしかしたらこれとは全然違う5本の映画を撮っているパラレルワールドもあったかもしれない。
けれど、この5本は撮られるべくして撮られたんだ。映画を観て考察したら納得できる。

品田の両親は存命だし(むしろ超元気)、
誰かが身近な人が亡くなって死んで落ち込んでいたみたいな話も僕の知る限りは聞いたことがない。
(強いていうなら上京してから愛猫が亡くなってしまったようで、それは悲しんでいたな)
どうして死を何度も描くのかはわからない。でも彼なりに何か思っていることがあるんだなと映画を観てきて思った。
友人が映画を撮るというのはそういう面白さがあるんだね。

品田という作り手を主軸に作品について書いてきたけど、
実はそれぞれ、一観客として、好きなところや役者、演技はたくさんあります。
「ノンフィクション」はやっぱり市場紗連のあの佇まいと表情がないと成功しなかっただろうし、
「マヨネーズラブ」の鈴木聖奈の声良いなー。後半の男に幻滅してマジで嫌がる感じが最高笑
「Dear」を観てから秋乃ゆにを普通に好きになってしまった。
makotoの話し方はアドリブのように自然だから、もっと映画でみたいと思う。
「不感症」の4人は、今となってはすごい豪華なキャスティングに思える。
池田大は主役以上の仕事をしていて、紛れもなく彼の主演作だし
紗都希は親しみを感じるオーラといなくなってしまいそうな儚さをまとっていた。
福永マリカは目や表情の演技がすごく緻密で、助演役でもいつも印象に残る。もっといろんな映画でみたい。
細川岳の立ち位置が3人の関係性を決定付けていたと思う。

去年のシネマロサでの特集上映the faceで知ってから藤原季節は特別な俳優の一人だ。
俳優仲間からもまっすぐな男だと評されているけど、その通りでかっこいい男だった。
『鼓動』の静かに語り、感情を抑えた季節の芝居もよかった。
デビュー当時は不良っぽい脇役のイメージが強かったのに、
映画に対する愛情、仕事以上の芝居を見せ続けたことで
現場・観客からの支持を受けて人気俳優になった綾野剛が重なる。

あとあまり誰も言わないけど、音楽のIMANはいつもいい仕事してる。
普通の商業映画の仕事もできそうなぐらい、映画のトーンを決める不穏な劇伴を生み出してくれる。


以上が、現時点で自分ができる品田誠監督論です。
短編数本だけで、ここまで長々と語る姿にドン引きしてくれたら光栄です。
それと、品田の古い友人・知人など
あまり普段映画を見ない人がこの5本を見にきて、
「古くからの知り合いだから見にきたけど、普段映画館で見る映画とは全然違うし、
なんかどう感じていいのかわからないなぁ...」と感じていた人が
ああ、そういうハナシだったのか!となんとなく理解してもらえる手助けになれば嬉しいですね。

品田誠、これからも監督作を撮ってくれたらそれはそれで嬉しいけど、
ひとまずは君をスクリーンで見ることに期待しているよ。



【執筆期間】2019.7/10-7/29








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